人間の認識をめぐって、「物は心の反映である」(唯心論、Spiritualism)か、「心は物の反映である」(唯物論、Materialism)かは、歴史的な論争となってきました。19世紀半ばにマルクスが「人間の心は、経済実践の産物である」と喝破した。さらに「矛盾は万物進化の原動力」(唯物的弁証法)から、社会の経済的矛盾を究明し、資本家階級と労働者階級という矛盾を発見したのです。そしてこの矛盾間の闘争こそ、社会進化の原動力であると結論したのです。この思想が20世紀の発展と混乱をもたらしたのですが、第2次世界大戦前後に、多田政一博士はマルクス哲学の誤りと唯心論の堕落を見抜き、唯生論(Creatism)を打ち立てたのです。
マルクスは人間の実践(欲求と行動)の重心を単に経済(お金)と見たのですが、多田博士は、人間は「食うこと」と「性欲」のためにお金を求めているのであって、人間実践の重心は経済ではなくて、「食と性」であると見たのです。マルクスの考えは社会学的には正しいが、個人的実践は社会的環境の産物であるとしたところに、誤りがあったわけです。それは今日、共産主義社会の破綻と崩壊という現実で明らかになったわけです。
一方、唯心論を見てみると、ソクラテスとアリストテレスは「人間の心は日常の生活実践の産物」と見ていたのです。ところが後に宗教的唯心論が時の権力と結びつき、「人間の心は神仏の産物」となってしまったのです。これが、共産主義崩壊後の現在の宗教戦争をもたらしているのです。しかしながら、東洋の宗教家は違いました。時の政治権力にへつらわず、日蓮、道元は「衣食住の実践が仏道」であり、人仏一体になるところに仏教のあることを悟っていたのです。
多田博士は、唯心論の本領は「身体実践」を取り上げるところにあり、唯物論の本領は「経済実践」を取り上げるところにあるとし、現代人の意識はこの両者の綜合であると見たのです。そして、「食と性による生活革新」こそ個人の成長と社会進化をもたらすと結論したのです。これが唯心論と唯物論を止揚した唯生論なのです。
(大西記)